今年(2024年)も12月、師走と言われる最後の月となりました。この師走(しわす)は、昔、僧侶が寺院を走り回り法要をしたということから由来したそうです。
今年は、気象庁の観測史上、最も暑い年で、暑い日が多く、暴風雨が多く、地震もあって、災害による復興が長引いています
また、11月は三の酉までありました。三の酉のある年は、火事が多いと言い伝わっています。火事のニュースや消防車のサイレンの音が多いような気がしました。
世界、国内共に政治や経済が変動しています。身近な課題として、物価が高くなり、安心した生活が難しくなってきているようです。
さて、本題「年の瀬に思う」に入りましょう。
1. 「年の瀬」の「瀬」
「瀬」は、川が浅く、水の流れが速い所です。それは、水の流れる幅が狭い所か、傾斜がきつい所のいずれかです。
「瀬」を含んだ小倉百人一首に次の歌があります。
権中納言定頼の歌『朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ) 』。
「朝ぼらけ」は、夜明けのことです。「瀬々の網代木」は、川の浅いところに魚を捕らえる網代木のことです。
歌の意味は、「冬になると、朝の冷え込みが一段と厳しくなります。京都の南部に流れている宇治川にかかっていた霧が、夜明けになると徐々に薄れて、あっちこっちの浅瀬に仕掛けられた網代木が現れて来る」という、のどかな景観を歌ったものです。
2. 「年の瀬」とは
「年の瀬」は、「一年の終わりの時期」のことですが、幾つかの意味を含んでいるようです。
① 年の暮れ、年末、歳末
「年の瀬」は、一年の終わりのことで、「年の暮れ」「年末」「歳末」とも言われています。
② 年を越す工面
江戸時代、商品を買う場合、代金を後で払う「買い掛け」が多かったそうです。購入代金を「暮れ」にまとめて支払います。そのため、支払うお金を工面して、年をなんとか越せるかどうかという問題を解決するという、意味もあります。
お金を支払えなければ、夜逃げ倒産になることもあります。
③ あわただしい
お金を工面する以外に、年末の売り上げを増やす商品合戦に誘われて訪れる大勢の人が動く、取引先への年末の挨拶をする、家庭での正月の準備をするなど、「川の瀬」の速い流れのように忙しくあわただしく動くことです。
3. 「年の瀬」の時期
昔は、多くの地域で正月の準備を始める時期は13日だったそうです。
「年の瀬」の期間は、月の後半である15日頃から31日までが妥当なような気がします。
4. 昔の年の瀬の風物詩「宝井其角と大高源吾の連歌(れんが)」別れの句
江戸時代、12月13日は年の暮れの煤払いの日となっていました。
時は元禄15年(1702年)12月13日、雪が降る中、大高源吾は煤竹売りに変装して、吉良邸の様子を探り終わり、帰路の途中に両国橋を渡っているときの出会いがありました。
俳諧の師匠である宝井其角が、みすぼらしい身なりの弟子の大高源吾を見つけました。其角は懐から紙と矢立を出して、「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と問いかけました。
源吾は、その紙に本心を知れないように「明日(あした)待たるる その宝船」と返句しました。
其角は、源吾の返句の意味を理解できませんでした。
其角は、源吾を憐れんで、自分の羽織を脱いで、源吾に着せました。
其角は両国橋で源吾と別れ、吉良邸の隣の土屋邸で句会を開きました。
翌日の12月14日寅の上刻(午前3時ごろ)に、赤穂浪士が本所松坂町の吉良邸に討ち入り、主君・浅野内匠頭の仇を討ちました。
大石内蔵助から事前に命を受けいた源吾は、吉良邸に討ち入りをすると、すぐに土屋邸に向かって討ち入りの知らせをしました。その時、其角は源吾の返句の真意を理解し、源吾が本懐を遂げることを祈ったそうです。
大晦日まで何日かあります。毎日を充実して悔いなく過ごしたいものです。