25-26 隅田川の歴史②

4. 隅田川に架かる橋、支流・分流、岸辺の名所・旧跡
 現在の隅田川は、岩淵水門から東京湾までの流れる川です。岩淵水門から水神大橋までは蛇行して東南に流れ、そこからはおおむね南に流れ、東京湾に注ぎます。

 隅田川に架かる橋(鉄道橋と高速道路橋は除く)、合流・分流(○つき数字)、橋に関する名所・旧跡を一部調べて見ました。

(1) 北区
 ① 新河岸川の合流(北区)

(2) 北区・足立区
01 新神谷橋(環七通り)

02 新田橋
03 新豊橋
04 豊島橋

 ② 石神井川の合流(北区)

(3) 荒川区・足立区
05 小台橋

06 尾久橋(尾久橋通り)
07 尾竹橋(尾竹橋通り)と千住のお化け煙突
 昔、尾竹橋東側に千住発電所があり、煙突4本が建っていました。見る場所によって、煙突が4,3,2,1と見えます。これによってお化け煙突と呼ばれていました。この発電所は現在取り壊され、跡地に「お化け煙突モニュメント」があります。

 自分も、このお化け煙突を見たことがあります。

08 千住大橋(国道4号・日光街道)と芭蕉の矢立
 千住大橋は、江戸時代の文禄3年(1594年)に架けられた橋です。

 当時、千住は日光街道の要所で、日本橋から初めの宿場町が置かれました。

 それから100年近く後に、俳人・松尾芭蕉が弟子の曽良を連れて、深川の採荼庵(現在の江東区深川)から船で千住大橋まで来て、奥州・北陸へと旅立ちました。芭蕉はこの千住で「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句を詠み、江戸と別れを惜しむ気持ちと旅への決意が込められています。この地に、「奥の細道・矢立初めの地」の碑が建てられています。

 更に後年、千住大橋は歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』にも描かれています。

09 千住汐入橋(言問橋西からの足立区加平までの「川の手通り」)

 ③ 旧綾瀬川の合流(足立区)

(4) 荒川区・墨田区
10 水神大橋
 この橋の名は、現在の墨田区堤通にある水の神様を祀った水神社(現在の隅田川神社)に由来します。隅田川の総鎮守として、水上交通の安全を守る神様として、古くから人々に親しまれてきた神社です。

 隅田川神社は、明治5年(1872年)に「水神社」から改名されました。それ以前は、浮島神社や水神宮などと呼ばれていたそうです。

 また、昔、水神社の場所が、隅田川の「江口」でした。「江口」とは、「入り江の入り口」で、ここから先は海(東京湾)となります。これを短縮しますと「入り江」が「江」で、「入り口」が「戸」となります。この場所が、「江戸」名前起源とも云われています。

11 白鬚橋(荒川区・台東区の境)(明治通り)
 この橋の名は、墨田区東向島にある白鬚神社に由来します。
 この明治通りは、明治神宮の近くを通ることからと云われています。

(5) 台東区・墨田区
12 桜橋(歩行者専用橋)と花火大会
 この橋の名は、両岸の桜並木に由来し、X字型の歩行者専用橋です。

 隅田川花火大会は、かつて「両国の川開き」として、両国橋の上流で1961年(昭和36年)まで行われていました。交通事情の悪化などにより中断されました。
 その後、昭和53年(1978年)に「隅田川花火大会」と名前を変え、現在では、第一会場が桜橋の下流から言問橋の上流、第二会場が駒形橋の下流から厩橋の上流です。

13 言問橋(国道6号線・水戸街道、言問通り)
 この橋の名は、平安時代の歌人・在原業平が詠んだ歌「名にし負はば いざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」に由来します。

 水戸街道は、江戸時代に江戸と水戸を結ぶために整備された道路で、五街道に次ぐ重要な脇街道として機能しました。水戸は、徳川の御三家の一つの水戸徳川家がありました。

14 すみだリバーウオーク(歩行者専用橋、東武鉄道橋に併設)

 ④ 北十間川の合流(墨田区)
15 吾妻橋(浅草通り)
 この橋の名は、江戸時代、江戸の東(ひがし)にあったので「東橋」が、後に「吾妻橋」と名付けられたと云われています。

 また、この場所が吾嬬神社(墨田区立花)への道筋だからとも云われています。
 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国を征討する命を受け、妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を同行させました。
 海が荒れ、渡ることができなくなりました。
 海神の怒りを鎮めるために弟橘媛は自ら海に身を投じたら、海が静まり海を渡れました。
 その後、妃の櫛が流れ着いた場所(吾嬬神社)に葬りました。日本武尊は妃を偲び、「吾嬬はや(ああ吾が嬬よ)」と嘆きました。このことから、吾妻橋と名付けたともいわれています。
 日本書紀に出てくる場所と異なりますが、後年、この場所にこじつけたのかもしれません。

16 駒形橋
 この橋の名は、台東区雷門にある「浅草寺駒形堂(馬頭観音を祀る)」と「駒形の渡し」に由来します。

17 厩橋(うまやばし)(春日通り)
 この橋の名前は、江戸幕府の御米蔵にある米を運ぶ馬のための馬小屋があり、「御厩の渡し」が存在したことに由来します。

 この橋は、美しい曲線が特徴的な橋で、近代土木遺産に選ばれています。

 春日通りの名前は、江戸時代、春日局の屋敷や菩提寺の麟祥院(現在の文京区湯島)が通り沿いにあることから、この名前が付けられました。
 彼女は、江戸時代に徳川家光の乳母に指名され、家光が三代将軍となると大奥を刷新し支配しました。

18 蔵前橋(蔵前橋通り)
 この橋の名前は、 江戸幕府の浅草御蔵(米蔵)があったことから、「蔵前」という地名に由来します。

 浅草御蔵の跡地に「東京工業大学発祥の地」の表示があり、現在は東京都下水道局になっています。

 なお、この地に蔵前国技館が戦後の一時期(昭和29年~昭和59年)ありました。
 何故かと云いますと、進駐軍が両国国技館を使用していたからです。
 この国技館は、当初一般席は「ござ」が敷かれ、そこに座り足を投げ出しているとお尻がいたくなります。座り方を変えたり、寝転がったりして大相撲を何度か見たことがあります。

 ⑤ 神田川の合流(台東区・中央区の境)

(6) 中央区・墨田区
19 両国橋(国道4号・千葉街道)
 江戸時代、武蔵国と下総国の両国にまたがっていたことから、両国橋と呼ばれています。両国花火の起源となった場所です。

 千葉街道と呼ばれたのは、明治になって千葉市が県庁の所在地となったときからです。

 ⑥ 竪川の合流(墨田区・江東区の境)
 個人的な話。昭和20年代。竪川の北側が決壊し、錦糸町界隈が水浸しになりました。幸い、我が家は50cmほど土盛りをしてあるので、床下まで水が来ました。

 自分は、「たらい」に乗り、庭でこぎ、一寸法師のような気分になったことを覚えています。

(7) 中央区・江東区
20 新大橋(新大橋通り)

 この橋は、永代橋より後に架けられたことから「新しい大橋」として名付けられました。

 ⑦ 小名木川の合流(江東区)

21 清洲橋(清洲橋通り)
 この橋は、両岸が中央区「中洲」町と江東区「清澄」町であることから、それぞれの地名から一文字ずつ取って名付けられました。
 関東大震災復興事業の一つとして昭和3年(1928年)に完成しました。
 ドイツのケルンにある大吊橋をモデルにしており、曲線的な優美さから女性に例えられて、国の重要文化財に指定されています。

 ⑧ 仙台堀川の合流(江東区)

22 隅田川大橋(水天宮通り)
 この橋は、上部に首都高速9号線、下部に都道475号線が通る二層構造の橋で、昭和54年(1979年)に竣工しました。

 ⑨ 日本橋川の合流(中央区)

23 永代橋(永大橋通り)
 橋の名は、江戸時代、当時の地名である永代島に由来します。

 現在の橋は、関東大震災の復興事業として大正15年(1926年)に造られ、国の重要文化財に指定されています。
 清洲橋が女性に例えられるのに対し、永代橋は男性に例えられています。

 ⑩ 大横川の合流(江東区)

 ⑪ 晴海運河に分流(中央区と江東区の境)

(8) 中央区
24 中央大橋(八重洲通り)
 この橋は、東京駅から八重洲通りを石川島に渡す橋です。橋の中央部に支柱が立つ斜張橋です。平成5年(1993年)8月26日にレインボーブリッジと同時に完成しました。

 ⑫ 亀島川の合流(日本橋川の分流)

25 佃大橋(佃大橋通り)
 この橋は、江戸時代から続いていた佃の渡しを廃止し、昭和39年(1964年)の東京オリンピックの開催に合わせて、都心の交通渋滞緩和を目的に建設されました。

 なお、江戸時代に石川島と佃島を別々に造成し始めたが、最後には陸続きになりました。

 ⑬ 月島川に分流

26 勝鬨橋(かちどきばし)(晴海通り)
 この橋の名は、日露戦争の旅順陥落を記念して「勝鬨」という地名が誕生したことに由来します。

 昭和15年(1940年)に完成した日本最大級の跳開橋です。船が通るとき、橋の中央部が上に開きます。しかし、交通渋滞の緩和や大型船の通行減少のため、昭和45年(1970年)以降は、開閉が行われていません。
 国の重要文化財に指定され、機械遺産にも認定されています。

 ⑭ 新月島川(新月島運河)に分流

27 築地大橋(環二通り)
 この橋は、隅田川で最も下流にあり、一番新しい橋です。この橋の形は、アーチ形の橋で、平成30年(2018年)に開通しました。

 西側は中央区の虎ノ門ヒルズから旧築地市場を通って、東側は江東区の豊洲市場の間を一直線につなげています。